すきま風に凍える夜を小さくなって耐えていると、やがて朝が来た。
歯磨きをしに宿の洗面台まで行くと、起き抜けでまだ声のかすれているアンダースに出くわした。
「おはようリョウ、今日はどこに行くつもりなんだい?」
今日の予定は……特に無いな。
俺は何の考えも無しに口を開いた。
「決めてないけど……紅茶でも飲みに行こうかな。アンダースは?」
「君に着いて行くよ」
まぁ来るものを拒む理由も無い。
「じゃ1時に下のロビーで」
「OK」
それから宿をチェックアウトし、昨日アタリをつけておいた近くの安宿に行ってみた。しかし3軒回っても全て満室だったので、どうしようもなくなり、仕方無しに、本当に仕方無しに昨日のゲストハウスにまたチェックインすることになった。昨日の部屋しか空いてないと言われ、だいぶゴネたが、「わがままを言うな」と言われしぶしぶすきま風吹くあの押し入れへと舞い戻った。
1時になり、アンダースと合流すると、近くの食堂で昼食をとり、この町へ来るときに使ったバスターミナルへ向かった。
ティーガーデンへ行くバスが来るまであと1時間ということだったので、とりあえずは明日出発のペナン島行きのバスチケットを買ってしまうことにした。この前ペナンを出発するとき、タイに帰る前にペナンで再会しようという約束をフェイズ君としていたし、タイに帰ってからタイ国内をぐるぐる回ってみたかったので、ペナンでタイのツーリスト・ビザ(30日間有効)を取っておきたかったのだ。(ビザ無しでは14日間)
ペナン行きのチケットを買おうと財布を出すのだが、価格が33RMなのに対して手持ちのマレーシア通貨が31RMしか無い。両替所へ行ってマレーシア通貨を入手しなければならない。
このタナ・ラタという町においてバスターミナルと両替所は町の両端に位置しているのだが、それでも7分も歩けば着いてしまう。それほどに小さい町なのだ。
両替所へ着いたが、カウンターに人がいない。仕方無いので、アンダースと二人で両替所の前で座って待つことにした。しかしいくら待ってもカウンターに人は現れない。ただ待つのも退屈だったので、アンダースに声を掛け、コンビニでビールを買って飲みながら待つことにした。
両替所の前には自家用車が一台停まっており、その周りで数人の若者達が何やら騒いでいた。ビールを飲みながらその様子をしばらく眺めていると、若者の一人に話しかけられた。
「両替所の人を待っているのかい?」
「そうなんだけど、全然来ないんだ」
「そうか。俺たちはメカニックを待っているんだ。車のキーをなくしちゃって、ステアリングロックを外さなきゃいけない」
しばらく彼らと話していると、若者たちの一人が肩をすくめながら言った。
「Waiting is boring.」
するとアンダースは持っていたビールを天高く掲げ、言った。
「But,beer is fun!」
なんと軽快な切り替えしだろうか。俺もいつかこういうのがスッと出てくるようになりたいと思った。
やがて彼らの待つメカニックが到着した。メカニックは道路にたくさんの工具を広げ、ハンドル部分をこちょこちょといじり始めた。するとその様子を見た通行人たちが、何だ何だと野次馬根性で車の周りにわらわらと集まってきた。みるみるうちに人だかりができていく。
若者たちは人が集まってくる度に
「ロックを外してもらってるだけなんですよ」
「何も無いんですよ」
と見たがり、知りたがり、聞きたがる野次馬たちに言って聞かせていた。もうてんやわんやのひと騒動である。
騒ぎが一段落すると、先ほどの若者は俺とアンダースに向かって、ため息混じりにつぶやいた。
「なくしたキーはこんなに小さいのに、こんな大きな問題になるとはね……(どや顔)」
誰がうまいこと言えと言ったァ!!!
………クソッてめーら俺の遙か頭上でジョークを散りばめた軽快な会話しやがって……どや顔すんじゃねーよこの野郎!!
あーうらやましい。
と言いつつも俺はそんな軽いジョークのアメリカンな響きに魅せられ、その後しばらくはその言語を頭の中で反芻していた。
やがて両替所のカウンターに人が現れないままティーガーデン行きのバスの出発時間が来てしまい、俺とアンダースはバスターミナルへ戻りバスに乗り込んだ。
30分程山道を走り、とある場所で降ろされた。運転手が言うには、降りた場所の目の前にある道を進んで行けばティーガーデンに着くらしい。
しばらくその道を歩くと、やがて大きな山々が連なる雄大な景色と、その全ての山にびっしりと生い茂る紅茶の葉が見えてきた。
←見渡すかぎり全てこんな風景だった。
山まるまる5つか6つ分くらいは全部紅茶畑なんじゃないだろうか。
日本の「茶摘み」を思い出させる風景である。
普段は茶摘みなんか全く慣れ親しんでなどいないくせに、何故か妙に懐かしい気分になった。
こんな景色の中を俺達はひたすら歩き続けた。アンダースはひらけた場所に来る度に立ち止まってニコンのカメラで風景をバシャバシャ撮っていたので進むのは遅かったのだが、1時間歩いても辿りつかないので不安になってきたところ、「あと1km」と書かれた看板が見えた。あともう少しだと気合を入れて1km進むと、また「あと1km」の看板がある。そんなことを数回繰り返し、歩き出してから2時間後、やっとティーガーデンの建物に到着した。
中には軽食のできるラウンジがあり、しばらくは広大な山々の景色に囲まれながらキャメロン・ハイランド特産の「ボー・ティー」を飲み、サンドイッチを頬張るというなんとも優雅なひとときを過ごした。
それから、お土産屋さんや紅茶の生産工場なんかを見学し、帰路についた。
永遠に感じられた往路だったが、復路は先が見えてるおかげで楽に抜けることができた。
先ほどはバス停も何も無い場所でバスを降ろされたので、どうやってタナ・ラタの町に帰ればいいのかわからない。
近くの食堂のおっさんにタナ・ラタへ行けるバス停の場所を聞くと、「バタフライ・ガーデン」というところにあると言う。
おっさんに言われた通りバタフライ・ガーデンへ行き、受付のおばさんにバスが来る時刻を聞くと、「1時間後だ」と言う。
1時間もすることなど無いので、仕方なく入場料5RM払い、バタフライ・ガーデンに入った。これも奴らの作戦なのだろうか?
入ってみると、その名の割には蝶のいるスペースはあまりに小さく、ほとんど気持ちの悪い昆虫や爬虫類が飼育されてる様子を見るだけのものだったが、めずらしいものや面白いものもいて、楽しくなくはなかった。
←ぎゅうぎゅうに巻かれたヘビ。
色合いや質感を見て、なんかおいしそうと思ってしまったのは俺だけだろうか。
←すーこーしーせーのーたーかーい~~~
なんてレベルじゃない。非常に巨大なカブトムシである。
←全員でカゴの網に張り付いている。
何かを必死に欲しているようにも見える。
←巨大なトカゲ。
微動だにしない。
これで擬態しているつもりだったらおもしろいのに。
←違う、長ネギではない。
一見してモツ鍋にぶちこみたくなる姿をしているが、よく見ればしっかりヘビである。
何の支えもなしに空中でこれだけ体を伸ばし必死に一点を見つめるその仕草から、このヘビがかなりの欲しがり屋さんであることがわかる。
←初めて見る人面虫。
恐らく人間の顔面で相手を威嚇し、襲われないためのものであるのだろうが、その割にはやけに優しい顔である。
←明らかに場違いなかわいい動物。
ずっと小さな檻を縦にぐるぐる周り続けているのを見て、「早く回し車買ってあげればいいのに……」と思った。
←そして肝心の蝶。
10メートル四方くらいの網で囲まれたスペースに、この蝶がたくさんいるだけ。なんと1種類のみ。
掃除もされておらず、生きている蝶と同じくらいの死骸が床に落ちていて、
おめぇバタフライバタフライ言ってる癖にバタフライを何だと思ってんだよコノヤロウって思った。
そうこうしているうちにバスの時間が来て、俺とアンダースは宿に戻った。
帰る途中、両替所を覗いてみたが、やはり人はいなかった。
しかし、どうしても明日のペナン行きのバスチケットを今日中に買ってしまいたい。俺は宿に帰ってから、アンダースに尋ねた。
「これから北上して、タイに向かうんだよね?」
「そうだよ」
「もしよかったら、俺の今持ってるタイ・バーツと、君のマレーシア・リンギットを交換してくれないかな?」
「もちろんさ」
当時は大体1RM(リンギット)=10B(バーツ)=30円だったので、1000B札と100RM札を交換してもらった。
すぐにバスターミナルへ行き、ペナン行きのバスチケットを買った。
バスは翌朝8時にタナ・ラタの町を出た。
マレーシアの旅も、もうすぐ終わりだ。